2011/08/15

VIVA! フラガール!!──お台場

2011.8.6
【東京都】

 この夏における電力需要の大きな山場と目されていた、お盆前の一週間を何とか乗り切ることができました。
 東北電力では、先日の新潟・福島豪雨により水力発電所が運転停止したため、ヒヤヒヤしたものの、最大の危機は乗り越えたと考えていいのではないでしょうか(まだまだ猛暑は続くので、節電は同様に必要です)。

 それにしてもオイルショック以来のエネルギー危機を乗り越えた日本民族の「凄さ」には、改めて感心しています。
 イヤイヤ、これで驚いてもらっちゃ困る。
 ここまでは、これから始まる本格的な復興をバネにこの国が大きく化けるための助走期間に過ぎず、本当の実力を発揮するのはこれからなのですから。
 外国の方々はよく見ていて下さいよ、日本は戦後復興に続いて、震災復興の奇跡を起こして見せますから!
 そんな心意気で、進んでいきましょうよ!


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お台場(Map)

 ゴールデンウィーク明けにスタートした「フラガール 全国きずなキャラバン」の情報を目にしてから、機会があれば是非応援にと思ったものの場所とスケジュールが合わず、季節柄もふさわしい夏を迎え、今行かねば! と足を運びました(フジテレビ主催「お台場合衆国」)。


 1905年ごろ採掘が始まった常磐炭田(現日立製作所の前身)が、現福島県いわき市に広がっていましたが、時代の流れから炭鉱の閉山が相次ぎ1955年から人員整理が始まります。
 地域の主力産業の閉鎖に伴い、炭鉱労働者や家族の雇用創出と新たな収入源確保のため、新規事業の立ち上げが検討されます。
 当時「日本人が行ってみたい外国」のトップは「ハワイ」だったことから、1966年こつ然と「常磐ハワイアンセンター」が誕生します。

 「いわきが日本のハワイ?」
 にわかに信じられない炭坑の娘たちがフラダンサーとなり、宣伝の全国巡業により知名度を高め、関東地方ではTVCMのおかげもあり「フラダンス=常磐ハワイアンセンター」と、ハワイに行けない者はすり込まれたものです。
 それがいつしか「ハワイに行ってきたよ!」「あぁ、日本にあるハワイね」と定着したことに驚きますが、それは来場者の満足なくしては実現できない、積み重ねの成果に違いありません。

 「日本のハワイ」誕生当時の情景を描いた映画『フラガール』(2006年)でその経緯を知ってから、訪問の有無にかかわらず、応援したいと思う人は増えたのではないでしょうか。
 そんなフラダンスチームが、現「スパリゾートハワイアンズ」の再開(大震災とその後の直下で起きた余震で被害を受け閉鎖〜10月1日営業再開)と、地元復興を盛り立てるため、46年ぶりの全国巡業に出ています(当時の状況が映画に描かれている)。
 これは是非とも応援したいとスケジュールをチェックし続け、今回ようやく出会うことができました。

 映画は誇張されるにせよ、やはり蒼井優ちゃんのような方や、そうでない方もいらっしゃいますが、しずちゃん(南海キャンディーズ)のような方はさすがにいません……
 全員が満面笑みのアピール全開で登場し、見る側を引きつけようとする迫力を目にした瞬間、上述のような主観は沈黙させられます。
 最初は全員が均一の「作り笑顔」に見えますが、数々の踊りから放たれる女性ならではの体のしなやかさや、暑さの中(この日の最高気温33度)で踊る姿の、汗や息を整える様子(ハアハアしないように訓練している)を目にするにつれ、その印象が覆されていきます。
 彼女たちの笑顔が「営業スマイル」ではなく「自己表現」であると感じた瞬間にそれまでの疑問は消え去り、彼女たちを素直に受け止められるようになります。
 全員がダンス好きであることが伝わってきますし、踊りが好きな人は場所を問わず、基本的に「うまく踊りたい」気持ちで舞台に上がるのでしょう。
 そして「うまくできた」と思う瞬間を、観客によろこんでもらえた際の至福感が「舞台の笑顔」に結びついていることを、近くで感じられた気がします。
 わたしは苦手ですが、舞台に上がって多くの人に見てもらい、よろこんでもらう行為(舞台上で演ずる行為)には、何物にも代え難い「魅力(魔力)」があると聞きます。
 彼女たちは、そんな「恍惚感」が忘れられず踊っているようにも見えてきます……

 ジッと見つめられているような、彼女たちからのアイコンタクトサービスと勘違いする行為は、自身を奮い立たせる呼吸の「ため」ではないか、と思えてきます。
 体を動かしながらも頭を静止させようとして、一点を見つめるための単なる目標物にされてるだけではあるまいか?
 そこから次の踊り(動作)に移る際の、目線と頭の動きにキレを出すための技と考えると、納得しやすい(見つめられてもそこに感情は無い)動作に見えてきます。
 映画で、先生役の松雪泰子がそんな指導をするシーンがあったような気がしてきました。だとすると、単なる受け売りになってしまうが、実感したということで……

 そんな彼女たちの目的である「被災地復興」&「わたしたちに会いに来てください」のメッセージは、彼女たちの「舞台では常にベストを!」の気持ちと共に、見る側にしっかと伝わってきます。
 そんなまぶしいばかりの踊りを刺激剤として、「オレたちは何かやってる?」という自問のきっかけにするべきなのでしょう……

 目的を持った「集団」だから可能なパフォーマンス、と受け止めるべきと思います。
 応援する側もひとりにできることは限られていますから、彼女たちを応援したいと各地で立ち上がる気運が人々を束ねることを願うばかりです。


 上写真はトップの演技で、映画で優ちゃんもやっていた、ひざを曲げて背中側にドスンと倒れ、そこからせり上がってくる姿で、映画のように盛り上がる場面です。
 今どきは「さぁ、立ち上がろう!」のメッセージにも受け止められ、感涙の場面となります……

 上述の端々で映画の印象と重なってしまい、ご存知の方には通じても未見の方には「何のことやら?」でしたらゴメンナサイ。
 いずれの方にも、映画を観て「スパリゾートハワイアンズ」に行って下さいという広告になった気もしますが、これも応援の一環ということに……

 でもおかげで、地味と言われるページがとっても華やかになりました。


潮風公園(Map)

 迫力ある大型クレーンが並ぶ対岸は大井ふ頭になります。
 何かのイベント船でしょうか「がんばろう日本」ののぼりが見えました。


 この台場は江戸時代末期、最初のペリー来航(1853年)に危機感を抱いた幕府が江戸防衛のために築いた洋式の海上砲台のひとつ(第三台場)で、品川沖(江戸入口の防衛ライン)に11基築造する計画がありました(付近に第六・七台場があり、七は未完成)。
 二度目のペリー艦隊は品川沖まで来て、この砲台を見て横浜まで引き返し上陸したとされます。その通りならば、見事な抑止力となったわけです。
 1940年東京港開港(第二次世界大戦開戦前年とは驚きましたが、もちろん軍事目的でしょう)から、付近の突堤建設・埋め立てが始まります。
 軍事目的の人工島が平和的に利用されるようになり、1978年開催の宇宙科学博覧会(宇宙博)では人気を博すも、当時付近の建造物は船の科学館だけで、倉庫やコンテナ置き場が広がる荒涼とした埋め立て地でした。

 鈴木俊一都知事時代(1979〜95年)に臨海副都心開発の検討が始まり、建設はバブル絶頂期の1989年に始まりました。
 大規模プロジェクトなので建設期間27年は仕方ないにしても、バブルがはじけた途端に企業進出もキャンセルされ、さら地だけが放置されることになります。
 青島幸男都知事(1995〜99年)は、記憶にも残る「世界都市博覧会はやりません!」(都市博はこの地区開発のデモンストレーション)と叫びましたが、就任中もこの地域の開発計画自体は継続されます。
 石原慎太郎都知事(1999年〜)は、オリンピック招致で何とかこの土地を活性化したいと躍起です。
 ようやく建築物も増え始めたとはいえ、まだ空き地の方が目立つ広大な埋め立て地の利用法に頭を悩ませています。


 よく足を運んだ「東京ビックサイト」での展示会の混雑や、フジテレビ周辺の休日の混雑にはたじろぐ面もありましたが、にぎわうスポット(パレットタウン、大江戸温泉物語等)は、ここ何年も変わっていないことに気付かされます。
 上写真(2枚)の、子どもの遊ぶ水辺が閑散としている様子や、お台場海浜公園にある人工砂浜の水着姿の少なさには、観光客はもちろん、地元や近隣の人々も関心を失っているばかりか、この地区人気の陰りが感じられ、「踊らされたお台場?」の実態が見えたような気がします。
 孤軍奮闘のフジテレビがいくら頑張っても、自分のテリトリーを満たすのが精一杯で、周辺との相乗効果を生み出すまでのパワーは無いようです。

 パレットタウンや大江戸温泉物語は、中止された世界都市博覧会使用予定地を、暫定利用として10年の契約期間で利用しています(そんなスポットは人が集まっています)。その期限は2010年(温泉は2013年)のはずも、情勢の変化により延期されています。
 今のご時世では新しい町を作るにも、募集〜即決は難しいでしょうから、時間がかかることは仕方ないと思いますが、牛歩の歩みながらも建物は増えているようなので、地道な取り組みが必要のようです(まだまだありませー!)。

 帰路の、りんかい線にやって来た相互乗り入れのJR埼京線車両の窓には、「防犯カメラ設置してあります」の表示が貼られてます。
 近ごろはどこでも、利用者への説明義務を課せられるので、大きな表示が増えました。
 でも大きくすれば「目立つ」という発想は、目立ちすぎて目障りだから見ない、という反応を生み出すように思えます。
 「女性専用車両」の表示はピンクが多いので、目に入れば避けますが、そのせいか「弱冷車」の表示が目立たなくなり、見逃しそうになったりします(弱冷車は暑いと感じます)。

 防犯カメラの表示を気にせず乗り込みましたが、車内の天井には「エイリアンの卵?」のような物体がぶら下がっています。
 銀行などのATMに設置されるものより大型の真っ黒な物体が、中吊り広告の脇に鎮座しています。
 話には聞くも初めて目にすると、かなりの威圧感があります。
 仮の話として、わたしが痴漢容疑で腕を捕まれたとき、そのカメラは何をとらえているのでしょう?
 まさか犯行場面(現行犯として認定できる行為)までは撮れないのでは、と思うのですが……
 装置の写真を撮ろうと思いましたが、この先犯罪を犯す予定はなくても、大きく映りたくないと思うと、コイツには何も手出しができないのか? と嫌悪感を感じます。

 上写真のレインボーブリッジって歩いて渡れるんですね!?
 展望台があることを知り眺めてみれば、橋を走っている人がいました。
 横浜ベイブリッジのスカイウォークは閉鎖されたので、今度是非と思っています。


追記
 今年のお盆ほど、その意義の大切さを考えさせられたことはありません。
 先祖や家族の霊を迎入れ、持てなそうとする儀式は、夏祭り・盆踊り・花火大会として、お盆という習慣を知らない都会育ちにも、完全に日常的な季節行事となっています。
 被災地における「お盆」という行事の大切さが連日TVで流れますが、行事を知らない都会育ちにもそこに込められた気持ちを理解できるところが、今年の特別な夏の「大切さ」なのだと感じます。

 お盆の習慣とされる、先祖たちへの現状報告と、感謝の気持ちを伝える瞬間にきっと、自身と向き合う機会を与えてもらっているのかも知れません。
 来年はもっとマシな報告ができるよう、心に誓う気持ちがとても大切ではないか、と思えてなりません……

2011/07/18

暑さをなごませる川面の風──多摩川

2011.7.9
【東京都】

 夏休み前に夏が来た! と盛り上がっても、この夏は節電で公共屋外プールの開設期間が短縮されているようなので、子どもたちは「どこで遊べばいいの?」とストレスを感じているかも知れません。
 晴天続きはうれしいのですが、近ごろの暑さに手加減はないので、暑さに少し慣れるまではご用心下さい……


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 国民がエネルギー源までを真剣に考えはじめた、本質的な意味での「エコ元年」となる夏の暑さ対策として、自宅の日よけ等が話題ですが、「冷房の効いた」公共施設・ショッピングセンター等、人が集まる場所に出かけるのもひとつの手と思います。
 涼むつもりが余計な買い物をしたり、映画を観ちゃったという行動は、消費活性化につながるので、社会の潤滑剤になります(エネルギーを自宅で浪費せず消費が活性化します)。

 そこで今回は、余計な買い物をしたくない方に、川辺で涼をとってはいかが? との提案になります。
 川という場所は周辺では最も低い場所にあたり、低地や谷地形が続き障害物(山や建造物)が無いため、水神とされる「龍の道」に例えられるような、風通しのいい場所になります。
 日差しを避ける場所や手段があれば、心地よく過ごせる環境と思います。

 この日歩く東横線多摩川駅周辺は自宅から徒歩圏内で、多摩川に架かる丸子橋(中原街道)を歩いて渡ります。
 橋のたもとの堤防は南西に面しており、おひさまの恋しい季節には日光浴目的で結構人気の場所になります。
 しかしこのカンカン照りの昼下がりでは、日差しに焼かれたコンクリートは熱かろうに、挑む人がいます。
 海外の方のようですが、お尻冷やしグッズなど準備しているのだろうか?
 テレビで目にする海外の猛暑レポートでも、背景に水着姿で読書している姿を見かけます。
 暑くてもクールに振る舞うことが万国共通の「粋」であるならば、彼女も「江戸っ子には負けない!」心意気なのかも知れません……(絶対暑いってば!)


調布取水堰(Map)

 調布取水堰は1936年に作られ1970年まで利用されますが、多摩川の水質悪化により生活用水の供給を停止し、現在は工業用水道として三園浄水場(板橋区)に送水されます(当時、堰の下流側では洗剤の泡が飛び散ったそう)。


 堰は東横線のすぐ脇にあり、通勤途中に川の様子を目にして十数年(間断期間あり)になります。
 その初めのころに大規模な浚渫工事(土砂撤去)が行われて以来、年々土砂が堆積する経年変化を観察していますが、浚渫後は川底だった場所もアッと言う間に土砂が堆積し、スッカリ緑に覆われています。
 河川管理側の姿勢として、工業用水の取水である緊張感の無さと、防潮堰の役割(海水進入防止)が果たせればいいという重要度の低さが、見て取れるような気がします。

 取水堰には高水位の記録(上写真:網越しに撮影)が記されています。
 右側に記された平成19年の高水位は大阪在住で実際に見ていませんが、立ち位置からその高さを想像すると、上述女性の足元まで水位が上がったかも知れません。
 左右で数値と線の高さが違うのは、おそらく基準面の高さが変更になったのではあるまいか?
 理由は違いますが、大震災被災地で地盤沈下の激しい地域では、これまでの記録が記された堰など構造物自体の高さが変わってしまったので、この先に記される記録には大きなギャップが生じてしまうことでしょう。


多摩川台公園(Map)

 多摩川台公園は「田園調布古墳群」で有名ですが、以前、堰から組み上げた水を上水道として供給するための調布浄水場がありました(1918年〜上述の理由で1967年廃止)。
 跡地には浄水場のろ過池・沈殿池が、水生植物園として残されています。
 地下貯水場も活用されているらしく、右写真はその換気塔のようで、所々にポコポコと立っています(映画『天空の城ラピュタ』を想起します)。

 ここは以前紹介したあじさいの名所(もう枯れかけてました)であり、春には車窓から見える桜色に染まる丘に、季節を実感する方も多いのではないでしょうか。
 公園から望む多摩川の景色は「多摩川八景」に選定され、落ち着けるスポットもあり、昼間っから宴会をする集団がいたりします(蚊にお気をつけて)。


多摩川浅間神社(Map)

 右写真は多摩川浅間神社の境内で、ここではお皿に願いを書いて奉納するらしいので、「お皿に願いを書き奉納」と調べますがまるでヒットしません。
 これは神道で用いられる祭器具の「平瓮(ひらか:平たい土製の容器)」で、「お皿ではない!」という強い主張が検索結果から感じらた気がしました。
 日本書紀には、神武天皇の大和入りに際し「天香具山(あまのかぐやま)の土で平瓮(ひらか)を作り祈れ」の神の啓示に従い、敵を降伏させたという記述があるようです。
 各地の名所で目にする皿投げはここにたどり着くと思われ、宮崎県の青島神社では「天の平瓮(あめのひらか)投げ」とされています。
 観光地で耳にする「瓦投げ」のルーツと思ったものの、調べると「瓦投げは遊び」とキッパリと切り捨てられていることからも、そこには「意図的な力」が存在しているように思え、信用できない印象が強まった次第です。

 ちなみに漢字の「瓮」(か、へ、もたい)は「甕」(かめ)に通じる意味があるそうです。
 その字が読めなかった庶民が、文字に「瓦」が含まれることから「かわら」と読んだことは想像できますし、神社側がそれに腹を立てたことも、とても理解しやすく感じます(これは勝手な推測です……)。

 江戸時代この付近で採れた鮎は幕府に献上され、第9代将軍家重は鵜飼を楽しんだことから多摩川の鮎は名を高めます。
 現在も古びた「鮎焼き」の看板を車窓から目にしますが、それは「鮎の姿焼き」ではなく「あん入りの人形焼」のようです。

 1925年(大正14年)開設の「多摩川園(〜1979年)」は、「温泉遊園地 多摩川園」としてオープンし、当初はヘルスセンター的な(?)「大人の遊園地」で、俗っぽい「川っぷち文化」を楽しむ行楽地だったようです。
 昭和の初めには川遊び客の料亭が並び、屋形船で鵜飼いの鮎漁を楽しんだそうです。
 そんな歴史をふまえると、以前この地で目にした立川談志のはまり様も、場所柄ゆえかと納得したりして……(失礼!)。


上野毛(Map)

 東急大井町線上野毛駅に移動し、改装工事中と知りながらも足を運んだ五島美術館前の通りです。
 東京急行電鉄(東急)創設者である五島慶太の美術コレクションを保存展示するため、没した翌年1960年に設立されます。国宝『源氏物語絵巻』の所蔵で有名らしいのですが、見られなければ無用の情報です。

 右写真はその前の通りですが、道の反対側から伸びた大木の幹が斜めに道路を横切っています。根のある場所も五島一族の敷地と思われますが、これって普通は怒られますよね?
 考えてみましたが、自治体の「五島様のご意向ですから、特例とさせていただきます」とのへりくだり方よりも、「うちの土地に道路を通したいと言ったのはそっちでしょ」の方が、納得しやすいように思えます。
 そんな「木の1本や2本でガタガタ言うな」の主張が通った時代の、おおらかさが感じられるような気がします。


 上野毛駅から多摩川へと下る切り通しの稲荷坂途中に、上野毛稲荷神社があります。
 どうもこの神社は、それまでの村の鎮守であった六所神社が移転したため、北野神社の移転もしくは分祠(本社の神を別の神社にまつること)に向けて、地域住民の手により崖線の斜面を切り開き土地を確保し、神様を招致したようです。
 上写真の灯ろうは地震で崩れたのかも知れませんが、このあっけらかんとした姿は「修復費用の寄付お願いしま〜す!」とのアピールに見えてきます。
 大震災に限らず日本の社会は、そんな助け合う気持ちによって続いてきたことを再確認させられます。

 切り通しの反対斜面には上野毛自然公園がありますが、整備工事中で立ち入ることができません(この一帯が工事中?)。
 ガッカリですが、そのおかげで下写真のブドウ畑に出会えました。


 住宅地内に存在感を示して残る一画だからでしょうか、ガキ時分のイメージである「多摩川河川敷の果実畑(ナシ、ブドウ…)」を想起して、応援したい気持ちにさせられます。
 広くないゆえ手入れが行き届いているようにも見え、品質向上の自負は達成できても収入との両立は難しいのではないか、という印象を受けました(兼業なら可能なのか?)。


二子玉川ライズ(Map)

 右写真は二子玉川駅ホームから見えるスーパー堤防建設工事区域に立つ木で、同工事区域から移植されたそうです。
 かなり長い間ネットがかけられたままの状態ですが、木を守るためというか、周辺に落ち葉をまき散らさない対策という気もします。
 付近には現在でも「工事反対」のメッセージが見られますから、新たな火種を作らないための配慮かも知れません。

 二子玉川東口方面では「二子玉川ライズ」とされる大規模再開発が進行中で、遠くからも目にできる27階建のマンション(筆頭に3棟)が立ち並びます。
 高島屋側と比べると中途半端なイメージを一気に払しょくすべく、ドカンドカンと騒がしくホコリが舞っています。

 東横線から「あんなに高い建物を作っちゃって」と眺めていましたが、田園都市線から振り返ると「あらま、武蔵小杉の方こそ節操がない」と、思い知らされた気がしました……

 帰路は、堤防の上の多摩堤通りを通るバスで多摩川駅に戻りましたが、途中に「温室村」というバス停があります。
 大正時代〜昭和初期、付近にガラス張りの温室が立ち並びはじめ、玉川温室村として知られるようになり、見学者や研究生が集まるほどとなります(カーネーションやメロン栽培)。
 日本における、近代施設による園芸発祥の地とされますが、現在その名残はバス停名だけだそうです。

 この日は梅雨明け発表の日で、強烈な日差しに照りつけられ暑かったものの、川面の風が心地よかったことを伝えるつもりでしたが、週明けに勤め先で「もう焼けてる」と指摘されました。
 川沿いには日差しをよける場所が無いので、日よけ対策万全でお楽しみ下さい(全然、オススメになってない……)。


追記1
 サッカー女子ワールドカップで、日本代表「なでしこジャパン」が初優勝しました。
 準々決勝ドイツ戦に勝ってから、開催国ドイツをはじめ海外の評価が高まって以降も、当初と変わらない執念のような気迫が感じられた印象があります。
 「アマゾネス軍団」のような海外の壁の間を、軽快にすり抜ける小柄な「大和撫子」の姿には、体格差のイメージをひっくり返してくれる痛快さがありました(なでしこの花言葉「勇敢」等)。
 決勝で対戦したアメリカ選手のコメントに「彼女らを後押しするものがあったような気がする」とありました。
 震災の有無は受け止め方の問題で、彼女たちは初めてのチャンスを自分たちの力でつかみ取ったのですから、胸を張るべきと思います。
 日本は元気づけてもらいました。おめでとうございます!


追記2
 セシウム牛肉が全国にばらまかれてしまいました。これで、食の安全対策や海外観光客の誘致も一からやり直しです。この国の信用がゼロに戻ったことになります。
 いかんとも表現しがたい事態なので、寺社の住職的な例え話にすると、安全と思われていた地域の作物が人間の体に入る前に、牛が身代わりになってくれたと考え、秋の収穫期までに全食品の安全性を検査しなさい、と受け止めるべきではないか? と思うところです。
 誰もが、何で人と一緒に牛は避難しないんだろう? と思っていたはずです(そこを掘り下げると、被災者農家まで加害者にされるおそれがあります)。
 牛だけでは済まされないでしょうから、全出荷物の検査を行わない限り、福島県(だけでは済まなくなる)は「ノーモア」でなく「ノー」とされてしまいます……

2011/07/11

古代からのヒルズ──田園調布

2011.7.2
【東京都】

 現在東横線沿いを歩いていますが、田園調布はちょっと特異な環境なので、テーマ探しに窮しました。
 邸宅を撮る気もしないし(撮ったらセコムが鳴りそう?)、田園調布学園の娘たちを撮るには桜の季節がいい(これも怒られるか?)、などなど。
 そこで高級住宅街のヒルズと、多摩川沿いの丘陵地に点在する古墳群を結びつけようと思った次第です。


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御岳山古墳(みたけやまこふん)(Map)

 等々力渓谷沿いにある等々力不動尊門前の、目黒通り反対側にあたる御岳山古墳(みたけやまこふん)は、土日入場可のはずが門は閉まっています。
 単なる怠慢じゃないの? と思うも、あきらめて門前からの写真です。


 門前の案内板によれば「五世紀後半から六世紀中葉の築造と考えられる円墳で、副葬品の七鈴鏡(しちれいきょう:都指定有形文化財)が良く知られる」とあります。
 七鈴鏡は、中国製の鏡をまねて国内で作られたらしく、鏡の回りに7つの鈴が飾られ祭祀(さいし)で使用された記録が残ります。出土品には古代の音色を耳にできるものもあり、なごませてもらえそうです。
 群馬県を中心とした北関東に多く出土するので、毛野国(けのくに、けぬくに、けぬのくに)の祭祀形態が南関東にも及んだと考えられています。
 東京都内で最も古いとされる田園調布古墳群(4世紀末)が、北に向かって点在する並び方や年代から、権力者の勢力が次第に北側へ移動していったと推測されています。
 それは、2~3世紀に存在したとされる邪馬台国(奈良 or 九州?)が、東国に勢力を広めた時期と考えられ、その勢力に侵攻されたのか、反発したのか、この付近の権力者が毛野国と親密になるきっかけとも受け止められます。

 毛野国には上野国(こうずけのくに:現在の群馬県とほぼ同じ)と下野国(しもつけのくに:現在の栃木県とほぼ同じ)が置かれ、毛州(もうしゅう)と呼ばれ、合わせた両毛(りょうもう)の名がJR両毛線のルーツになります。


狐塚古墳(きつねづかこふん)(Map)

 古墳の話題になるといつも「あぁ、奈良行きてぇ〜!」の願望が、じんわりと静かにこみ上げてきます。
 JR桜井線纒向(まきむく)駅近くで見つかった「神殿跡」候補とされる遺跡などの前に立つことを想像すると、タイムマシンで行ってきたかのような、陶酔の瞬間を体験できるのだろうと思ってしまいます。
 学術研究による有力説が確立されていないテーマについては、素人が勝手な想像や仮説を立てても文句付けられることはありません。
 現物を目にできないものを研究対象とする点では、考古学も地球科学(わたしの専攻)もロマンチックな学問と言えるかも知れません。
 明日香(飛鳥)桜井周辺には、言葉では説明できない、この国に暮らす者を「引きつける力」のあることが思い出されます……

 右写真は狐塚古墳で、多摩川方面が見晴らせる公園となっています。
 こんな場所に墓を作れば、故人もさぞよろこぶだろうと思いますが、ここは多摩川の崖線(がけ)の際に立地します。
 宅地開発や道路整備により、傾斜に対する印象もゆるやかになりましたが、昔は絶壁のような場所だったことでしょう(写真の見晴らしは川崎市の武蔵中原駅方面)。


八幡塚古墳(はちまんづかこふん)、宇佐神社、傳乗寺(Map)

 八幡塚古墳(築造時期は5世紀中頃と推定)は現在、宇佐神社が管理しているようで立ち入れませんが、古墳の南斜面には映画の舞台となりそうなこぢんまりとした境内があります。
 ここは源頼義(みなもとよりよし:八幡太郎義家の父、源頼朝・義経はやしゃご)が1051年安部一族(東北地方の豪族)討伐の際に、この尾山(尾山台由来の地)に陣を張り勝利を誓い、戦勝後ここに八幡社を建て神に勝利を報告したそうです。


 一段下がった坂の下に傳乗寺(伝乗寺:浄土宗)が並びます(上写真は敷地内構造物のはり飾り)。
 始めに尾山の古墳が造られ、神社、お寺と並ぶ様子が、この地の歴史を示しているようです。
 象徴的な山という自然造形を信仰の対象とする日本人の心は、自然崇拝として古代人から受け継がれてきたように思えます。
 それが継続的だったか分かりませんが、後世の人々がそれを古墳と知った上で神仏を祭ったことは、庶民の関心を集めるには最適の場所と考えたからでしょう。
 古代神道とは、そんな祖先の歴史・文化を巧みに利用したものかも知れません。

 地名の補足として、江戸時代中期に「小山村」とされるも、明治時代に小山(現在の武蔵小山)と紛らわしいため「尾山」と漢字を変えたそうです。
 東急大井町線「尾山台」駅名の由来は、付近の小字名「尾山」と「台」地区に接していたため、合わせて「尾山台駅」としたそうです。
 「山」と「台地」がなぜ重複しているのか? との質問に対する回答にありました。


寮の坂(Map)

 かつて上述の傳乗寺は坂の上にあり、僧侶の学寮が併設されたことから「寮の坂」とされます。
 下写真の道標に刻まれる左側の「籠谷戸:ろうやと」とは、多摩川の流れがこのがけを洗っていた室町時代、奥沢城(現九品仏浄真寺)への武器・兵糧の陸揚げに利用された場所だそうです。
 江戸時代には傳乗寺が、川崎側の泉沢寺と九品仏浄真寺の中間拠点とされ、寮の坂(写真右側)は軍用道路の性格が強かったそうです。


 古代からのヒルズには、等々力渓谷のように丘陵地を狭い幅ながら深く浸食してできた、急傾斜の谷が数多く刻まれています。
 今回ルート設定時の、古墳の丘陵伝いに歩けば起伏はないだろうの予測は大ハズレでした(並行する環状八号線をイメージしたのが間違い)。
 削り残された岬のような場所が、ヒルトップとして古墳建造の最適地であることを、目で見て初めて納得できましたし、それが一列に並ぶ理由も歩いたことで理解できた気がします。

 暑さの中そんな谷間のアップダウンを何本も突っ切って息も上がり、これは熱中症ヤバイかも? とヘロヘロなのに、住宅地なので自販機すら無い……


ぽかぽか広場(Map)

 ここは「ぽかぽか広場」とされる公園で、玉川浄水場の西側跡地に都営住宅と共に作られました(1997年開設)。
 玉川浄水場は1970年、取水源である多摩川の水質悪化により生活用水の供給を停止したため、その一部に上述の施設が作られます(現在は、工業用水道として三園浄水場(板橋区)に送水)。

 これも「周辺環境に配慮した公園作り」なのでしょうが、知らないわたしは「ここは古墳」(下写真)と思い登っていました。
 傾斜地なので「山」に見えましたが、隣接する浄水場からは小高い丘程度のものです。
 芝生に覆われた開けた場所ですが、この日差しの下ではさすがに人出もありません。


 すぐ隣には「お嬢様学校」とされる、田園調布雙葉(ふたば)学園(1941年開校)がありますが、こんな窮屈な場所柄なのかと驚きます。
 「幼きイエス会」を設立母体とするクリスチャン学校のため、第二次世界大戦へと向かうこの国では、望むような土地の確保は難しかったのかも知れません。

 卒業生には、皇太子妃雅子とその母、長嶋三奈とその母等々の名前が並びます。
 その中に、テレビ朝日アナウンサー前田有紀の名前がありました。
 以前、テレ朝に隣接する六本木ヒルズのエスカレーターで見かけたことがあります。背が低く(失礼)とても可愛らしい姿は、テレビのイメージ通りの印象がありました。
 脱線ついでに、こちらもエスカレーターですれ違った先輩の上山千穂(以前ニュースステーション担当)は、一目見てこんな事いうのは大変失礼ですが「コイツやっぱり変!」という落ち着きの無さがイメージ通りでした……


宝来公園(Map)

 田園調布住宅街の一画に「宝来公園」という緑のオアシスがあります。
 南西向きの斜面なので、分譲すれば人気の高い場所柄と思いますが、1925年(大正14年)付近の開発に際し、武蔵野の原風景を後世に伝えようと汐見台(東京湾が望めたのでしょう)の一画が公園として残されます。


 近ごろ、東京近郊の公園として管理される雑木林を歩く際、「この大木はどこまで育てるつもりなのだろう?」と感じることがあります。
 平和の象徴という側面もあるのでしょうが、公園の大木は大切に守られるので、若木が育とうにも地表に光が差さない公園が多いように思います。
 雑木林とは人里近くにある林のことで、人が生活のために利用(伐採など)することで、若木が成長し林の世代更新がうながされてきました。
 自然のままに残すべき森とは区別される身近な林のイメージとしては、所々地面に日が差し込み若木が見られる、コントラストのある林の方が親近感を覚えるのでは、と思ったりします。
 
 世田谷区は「おもいはせの路」(国分寺崖線散歩道)という、九品仏浄真寺〜二子玉川駅に6.7kmの散策コースを設定しており、所々に案内板が設置されているのがとても助かりました(住宅地は目印になるものが少ない)。


カトリック田園調布教会(Map)

 ここは1931年カナダ・フランシスコ会の宣教師により創立されます。戦時下では困難に遭うも、終戦後は比較的早期に再開されたようです。
 本部は上述の宝来公園近くにありますが、この建物は隣の多摩川駅に近い丘の上にそびえます。
 教会の尖塔(せんとう)はシンボルですから、周囲から目につくように設計されますが、付近には起伏が多く緑も豊かで高い木もあり、歩いてみると思ったほど目立たない存在になっています(電車の車窓からはよく見える)。

 田園調布の町づくりは、ヨーロッパ(特にイギリス)の田園都市をめざした町作りがひな形とされます。
 西洋の町には教会等を中心として広がる様子が思い浮かびますが、日本での実現は無理としても、田園調布の町内(3丁目)に建てられれば御の字という気もします。
 何せこの町は「駅」という実用的な施設を中心に設計された、日本の町なのですから。
 でも車時代到来と共に高級住宅地化して以来、どれほどの住人が鉄道を利用しているのか東急電鉄に聞いてみたい気もします。
 豪邸の住民たちは鉄道を利用しているとは思えないので……

2011/07/04

ギリギリの夏を耐えるための希望──自由が丘

2011.6.25
【東京都】

 7月1日に、東京電力、東北電力管内の大口需要家に電力使用制限令が発動されました。これは1974年の石油危機以来約37年ぶりとなります。
 地下鉄駅のエアコンが止められる様子をニュースで見ましたが、車内・駅共に冷房が無かったころ、恥ずかしいくらい汗が止まらなかったことを思い出します。

 前回は火力発電の燃料節約が目的で、使用電力の総量を減らすため繁華街のネオンや広告灯の点灯を禁止し、テレビの深夜放送が無くなりました。
 その経験から「脱火力発電」→「原子力発電推進」に向かったのでしょう。
 今回その間違いに気付いた国民は、今度こそかじ取りを間違うまいと「脱原発」に向かうための第一歩として、この「節電の夏」を受け入れているのではないでしょうか。

 電力の大口需要家である工場等の土日操業が始まる様子を目にした際、社員の家族や下請け業者の家庭のすそ野まで協力するからこそ成り立つことに、目を向けるべきと感じました。
 島国民族特有のこの一体感こそ日本人の長所と感じられ、そのポテンシャルの高さにこの民族の凄みを初めて目にした気がします(戦争をしようと考えた時代には、想像もできない高揚感に包まれたことでしょう)。
 再生の準備に向けてエネルギーを蓄え始めたこの国は、「ギリギリの夏」を乗り切った後に大きく飛躍するはず。そんな期待を感じ始めました……

 日本発は技術だけでなく、ライフスタイルでも世界をリードする日が来るのではないだろうか?
 というか、そんな希望がなければ「やってられない夏」に突入です……



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九品仏(くほんぶつ)(浄真寺)(Map)

 法事が終わったようで、参列者たちが三々五々帰途に就きます。
 お寺でそんな方々の姿を見かけると、その情景と共に「家族」を描いた作品が深く印象に残る、小津安二郎監督の映画を想起し、走馬燈のようにさまざまなイメージがよみがえってきます。
 それは映画からの印象だけでなく、これまでの経験からもよみがえるため、気持ちが引き締まるのかも知れません。


 この地には、室町時代に世田谷吉良(きら)氏家来が居城とした奥沢城があり、その跡地に寺が建てられます。
 それゆえ周囲との差別化はキリッとしていて、墓地の配置には曲輪(or 郭:くるわ 城郭内を分かつ区域で、帯状に伸びる形状)を割り当てた様子が見て取れるところに、由来が感じられたりします。

 本堂での読経を扉を開けオープンにする姿勢には(ただ暑いから?)、お寺の存在意義を広めようとする意志があり、こういうお寺でこそ祈りたいと思わせる魅力が感じられます。
 七堂伽藍(金堂、講堂、塔、鐘楼、経蔵、僧房、食堂)が残るそうですが、塔はどこにあったのだろう……

 京都の浄瑠璃寺同様、9体の阿弥陀如来像を祭る「九品往生」(くほんおうじょう)の思想に由来することから「九品仏」と呼ばれるようになります(1678年開山:江戸時代)。
 その教えでは、人物・物の性質をまず上品・中品・下品に分け、それをまた一品ずつそれぞれ上・中・下の三品に分け「九品」とするそうで、「上品(じょうひん)」「下品(げひん)」の語源はこれによるのだそうです。
 3年に一度開かれる「お面かぶり(二十五菩薩来迎会)」の行事では、本堂と上品堂の間を菩薩の面をかぶった僧侶が渡るそうです。菩薩来迎の様子を表現するそうですが、向かう先が「上品」なのは当然ですよね……

 浄土宗のお寺に、狭いながらも石庭がある。と、とらえるのではなく、以前このお寺では人々に心の静けさを伝えるための小さな石庭を造り、それを例えにして諭す話をしたと、とらえるべきという気がしました。
 いずれにせよ現代のわたしも「いい絵」と感じたのですから、作者の気持ちが伝わっていることは確かです。

 九品仏川の源流と思われる場所が寺の裏手にあり、公園になっています。
 すぐ脇から暗きょ化され、その上は狭い路地のような歩道とされています。水源にできない流れは役に立たないとの判断なのでしょうね(有効活用、安全確保もありますが)。


自由が丘(Map)

 当初の狙いとしては、繁華街をかっ歩する女性の足を撮りたかったのですが、現場で足だけ狙うように見えたのでは単なるフェチかスケベおやじになってしまうと、このくらいなら雰囲気が伝わるか? と方針修正しました。


 ここは「グリーンストリート」と称される遊歩道で、桜並木の下にベンチがズラーッと並ぶ憩いのスポットになります。
 この地下には、呑川(のみがわ)支流の九品仏川が暗きょ化され流れています(看板には「旧九品仏川」と記されます)。
 付近はゆるやかな傾斜地で坂が多く「ミニ渋谷」のようで、谷底の駅周辺から町が発展した点では似ているように見えます。

 東横線の開通時(1927年:昭和2年)は「九品仏前駅」として開設されますが、現大井町線が開通し(1929年:昭和4年)九品仏の門前に「九品仏駅」が設置されたため、本駅は地名から「衾(ふすま)駅」とされるところを、新しい名称を取り入れ「自由ヶ丘駅」(1966年「自由が丘駅」に改称)とされます。
 その名称は、東横線開通の年に開校した私学の「自由ヶ丘学園」に由来しますが、地域の通称としても浸透したため、目黒区誕生時(1932年:昭和7年)に、この地域は東京市目黒区自由ヶ丘とされます。

 これまで歩いた東横線の「碑文谷駅→学芸大学駅」「柿の木坂駅→都立大学駅」同様の安直な命名ととらえるのではなく、開通当時農村だった一帯で、いかに「将来性ある明るい町づくりを目指す」アピールするか腐心したおかげで、現在の人気が生まれたと考えるべきという気がします。

 右写真はテレビ等でよく見かける、ラ・ヴィータというショッピングモールですが、もう旬は過ぎたのか人出の少なさに驚きました。今どきはスイーツ・フォレスト?(スイーツのフードテーマパーク)
 池にはカルガモ親子が泳いでおり、チビのかわいさには思わず足を止めますが、人寄せガモのように見えてしまいます。
 上記いずれの施設にも関心はないものの、中規模程度の再開発はポチポチ見受けられ、その規模の再開発で人を呼び込めるところが、この地のブランド力なのでしょう。
 そんなサイズがこの町の身の丈に合っているように思えますし、流行の移り変わりの速さを物語っているのかも知れません。


奥沢神社(Map)

 この神社は自由が丘駅と目黒線奥沢駅の間にあり、九品仏の地にあった奥沢城の守護神として建立されます。


 「茅の輪」を目にし立ち寄りましたが、本来は写真上にある鳥居のしめ縄が「大蛇(竜?)」をかたどることで有名だそうです(気付きませんでした)。
 江戸時代この付近で疫病がはやった際、「藁で作った大蛇をかつぎ村内を回り鎮めよ」のお告げに従い、疫病が治まったことに始まる祭事が現在も伝承され、前年秋の祭りで使われた藁の大蛇が鳥居に結ばれています。

 茅の輪は、大祓(おおはらえ)という除災行事(6月と12月の末日に行われる)で、茅の輪を潜りけがれを払う儀式に使用されます。
 京都では何度か目にしても東京では珍しいと思っていたものの、近所の多摩川浅間神社にも伝承されていますから、ただ梅雨の時季に神社へ足を運ばなかっただけかも知れない、と思ったりします……

2011/06/27

不安な「夏の扉」が開かれる──都立大学

2011.6.19
【東京都】

 今年の梅雨入りは早かったせいか、前半は肌寒い陽気が続きましたが、さすがに夏至を過ぎれば梅雨もSummer Sideを呈しはじめ、ムシムシが一気に押し寄せてきます。
 まずはこのムシ暑さに体を慣らす必要がありますが節電モードも加わるので、この夏の体感不快指数(とてもイヤな表現)はどれほどか?
 文句を言っても仕方ないので、まずは食生活・体調管理(運動を含め)の準備を始める時季のようです。

 埼玉県熊谷で39.8℃を記録した日、東京電力管内の需給割合が91%となりました。
 原発の現場では「弁の向きが逆だった」等、使い捨て労働者(被爆量が超えたらご苦労さん!)たちによる懸命な(?)放射線封じ込め作業が続きますが、その一方で、電力需要量が供給力を超えたら「はい、それまでよ」という態度に見えてしまう東京電力の姿勢には、ほとほとあきれます。
 国や自治体に向けられた矛先も、何ら変化が見られない停滞状況には、復興への意欲に水を差す失望感を覚えてしまい、そんなヤツらに「節電」と言われても、何だかなぁと思ってしまいます……
 

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駒沢緑泉公園(Map)

 ゴールデンウィークに仕事の車で通った際、公園の看板を見た同乗者の「駒沢公園とは違うの?」が印象にあったので、立ち寄りました。
 ハチたちはかき入れ時と精を出しているためか遭遇の機会が多く、反射的に払ってしまった後「刺されたらイヤだな……」と思う回数が多い季節になりました。


 かつてわき出した水は蛇崩川(じゃくずれがわ)に流れ込んだそうで、広さはないもこの一画にそびえ立つ大木たちは、そんな様子を見てきたのでしょう(狭い場所ながら立派な木が残される一画です)。
 現在もわき水はあるのでしょうが、木立に作られた人工的な流れで子どもたちがたわむれ、池のない地面から吹き出す噴水では盛んに水を浴びています。
 素っ裸で走り回るチビを両親が大笑いで見ています。子どももよろこぶのでしょうが、あれって親の趣味ですよね……(ちなみに男の子です)

 未見ですが、ここにもプレーパーク(やりたい放題でも、全部自己責任の公園)があるようです。

 おそらくこの周辺では国道246号線付近が分水界(雨水が流れ込む河川の境界)となるようで、北側は蛇崩川、南側は呑川(のみがわ)の流域になります。


駒沢オリンピック公園(Map)

 前日の土曜日が雨だったせいか、曇り空でも人出が多くにぎわいが感じられます。
 広い公園ですから、一画をスケボーパークにするくらいどうって事ないようで、ここのにぎわいは外国人が多いせいか、都会的な「○○ストリート」のような空気が感じられます。
 そのひとつに写真のような、仲間内での「ノリ」にギャラリーが集まり、盛り上がっていくチャレンジもあります(見せ物ではない)。
 しばらく見てましたが、クリアする度に一段ずつボードが積み上げられていく様子には、オリンピックの走り高跳び・棒高跳びのような緊張感と、期待感が高まっていきます。
 それにしても、足下のボードと一緒に飛び上がれる力学自体が「?」と感じる芸当です。

 でも、路面が平らな場所(舗装路面等)でしかできないので、転倒した際はとても痛そうです……


 公園内で最も盛り上がっていたのが上写真の球技場で、関東高校アメリカンフットボール大会の決勝戦、慶應義塾 vs 早大高等学院が行われていました。
 この写真はフェンス越しに撮りましたが、外から見えるのにスタンド観戦には入場料を取られるようです。
 結果は35対7で早大高等学院の優勝。スクールカラーの雰囲気からすると手前が慶應か?
 高校生ですから、これからもっと大きな体になるでしょうが、もう立派な体つきの選手がチラホラ見られます。

 真剣勝負中の彼らには失礼なんですが、写真中央奧に立つ女子マネージャー(?)がビデオを撮っている姿に「青春真っただ中」が見て取れる気がして、写真を見る度に目がいってしまいます。
 今どきのマネージャーはビデオ撮影が重要任務のようです。


 第一球技場とされる場所で、アーチェリーの都大会(?)が行われています。
 この競技に接するのは初めてで、開かれた門の外でタバコを吸っている競技者(?)に親近感を覚え、ソロソロとのぞきました。
 両脇の選手は望遠鏡のようなものをのぞいていますが、矢を射る際は中央の選手のように使えませんから、狙いを定めるために使用するものではありません。
 これはフィールドスコープといって、放った矢の得点や狙いとのズレを確かめるためのもので、次の狙いを修正するための情報源とされます。
 的との距離は最長で90mあるそうですから、いちいち見に行ってたのでは日が暮れてしまいます……


 ここは上述第一球技場の外壁で、テニスの壁打ち名所(?)のひとつでしたが、現在は「壁打ち禁止」の張り紙とともにネットで覆われています。
 早朝から「パコパコうるさい」という、近所からのクレームだそうです。
 今に始まった話ではないと思うので、マナーが悪くなったということなのか?

 公園の脇は以前都立大学(現在の首都大学東京だそう)があった敷地で、売却後のマンション建設計画に「建設反対!」ののぼりが並んでいたり、ダンプが行き来していた工事中以来の訪問ですが、現在はドでかいマンション村(深沢ハウス)がそびえています。
 もし、そんなクレームがそこの住民のものだったら、ちょっと言いたくなっちゃいますね。暗いうちはできないんですから、カラスが騒ぐようなものと受け止められないものか?
 高級マンションなのに防音設備は無いの? とでも聞いてみましょうか……


衾(ふすま)町公園(Map)


 江戸時代、現在の環七通りの南側一帯は「衾村」とされ、1889年(明治22年)碑文谷(ひもんや)村との合併で「碑衾(ひぶすま)村」〜「碑衾町」となり、1932年(昭和7年)目黒町との合併で目黒区が誕生します。1964年には「衾町」の名も消えてしまい、現在は公園名だけが残されています。

 目黒区のホームページには、油面(あぶらめん)碑文谷と並ぶ難読地名の一つと紹介されますが、その由来については、
・この地に古くからあった民間信仰の神の名「塞坐大神(ふせぎますおおみかみ)」の「フセギマス」が転訛した。
・この地が往古から馬の飼料「麩(ふすま)」の産地として知られていた。
・地形上、呑川の本支流の谷間が多いところから「間(はざま)」が転じた。
・幾つかの丘陵が並ぶこの土地の起伏の様子が「衾」(掛け布団)に似ていた、などがあるようです。

 ルーツは特定できずとも名称が残されれば、「子どものころ遊んだ公園の名前」は記憶にあっても地名に無いことから、育った地域への関心が高まるかも知れません。


氷川神社 周辺(Map)


 旧衾(ふすま)村の鎮守様で、長い参道にコケをまとった大木が並ぶ雰囲気からは、地域に守られてきた様子がうかがえます。
 参道を通勤・通学路に利用している方も多いようで、ON・OFFの間に緩衝地帯を通る日常というのは、自分の中に新たな発見がありそうな気もします。
 近所の方と思われる参拝者がパラパラ訪れるのですが、みなさんキッチリとお参りの所作をされるので、祈りの終わりを待つ側も、この時間は「永遠か?」と感じさせられます(写真は不採用です)。

 9月の祭礼には「剣の舞」とされる、八岐大蛇(やまたのおろち)退治を描く奉納行事があり、上写真左は舞台に登る道になります。


 上写真は、中世の時代に周辺(碑文谷・衾)の領主だった吉良氏が建立した東光寺にある、「撮ってくれ!」とこびを売る石像です。
 吉良氏とはご存じ「赤穂浪士」の敵役吉良上野介の家系で、世田谷城(せたがやじょう:豪徳寺)を本拠にしてこの地域を領地としていたようです。

 このお寺には他にも七福神など石像が多く配されており、その背景には石像を提供する存在がありそうと思ったら、門前に石屋がありました。
 失礼かも知れませんが、今どきこの立地で石屋商売を続けていけるのだろうか? その宣伝としてお寺に奉納したように見えました。


 上写真は常圓寺(じょうえんじ)の門扉で、切り抜かれた絵柄は「橘(たちばな)の紋」で日蓮宗の印になります。
 わたしには何か笑っているような絵柄にも見えるので、背景の緑鮮やかな季節の訪れをよろこぶ様子として伝わればと思います……


長屋門跡(Map)

 ここは都立大学駅と大井町線緑が丘駅の間に位置し、代々衾(ふすま)村の名主を務めた岡田家の長屋門(門の両側に使用人の住居などが備えられる)で、江戸時代に作られました。
 現在も使用される門らしく、開門される際にはどんなにガッカリする車や人の姿でも、背筋を伸ばした振る舞いをしてもらえたら、と思うところです。

 目黒緑が丘郵便局の風景印の絵柄に採用されますが、ちょっとガッカリなので紹介は控えます。

 都立大学駅から大岡山駅までは、暗きょ化された呑川(のみがわ:最初はどんがわと読んでいました)沿いを歩きます。
 桜新町付近を源流とし、大岡山駅付近で姿を現しJR蒲田駅付近を通り羽田空港付近で東京湾に注ぎます。

 目黒線大岡山駅にたどり着くも、空腹のため東工大キャンパス潜入は断念。
 しかしこの商店街(飲食店)にはいつも裏切られる印象があり、今回も寄ろうと思ったそば屋が「準備中」だったので、我慢して帰ってきました……

2011/06/20

多様さが暮らしやすさを生む──学芸大学

2011.6.11
【東京都】


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 東横線学芸大学駅から降り立ち周囲を見回すと、気取った印象もなく、今どきの駅前商店街に欲しいものはフルコースで並び暮らすには便利そうですし、渋谷から4つ目の駅で急行も止まるなど、町の宣伝文句が一目で分かる光景になっています。
 高い建物は無いのに、見通しが利かないのは、建物が密集しているためですが、それを息苦しく感じなければ、引っ越してきたその日から恩恵を受けられそうな、期待感が持てる町という印象です。

 しかし、駅の地図で一番近そうな郵便局に行ってみると、簡易的な店舗で土曜日は12:30で営業終了してしまいます。現金を引き出そうと訪問先で時折立ち寄りますが、郵便局の立地は町の便利さを左右する要素のひとつです。


 その閉まっていた郵便局の並びに、建物に歴史を感じさせる「うなぎ 宮川」(上写真)があります。
 以前市ヶ谷で食べたか? この店名はよく目にするので調べてみると、のれん分けとは違う流れがいくつも派生したようなので、面倒に首突っ込むのやめました。
 ここは鷹番(たかばん)店ですが、近くの碑文谷(ひもんや)でも目にします(この2店舗は系列らしい)。
 時折、無性にうなぎを食べたくなるのですが、あれこそ「体の要求サイン(いま食べないと体が参ってしまう)」という気がして、素直に従ってしまいます……

 東京学芸大学(国立)は、1964年小金井市に移転し跡地が附属高等学校となったので、駅名のはなごりはかろうじて残されています。


碑文谷公園(ひもんや)(Map)

 東横線の車窓から眼下に見える公園で、そのうち歩こうと思いつつ、はや十余年…… 思い立ったときに踏み出さないといつまでもたどり着けない、という教訓です。


 目黒区内では古い公園のひとつとされ、1932年市郡合併により東京市が35区となり、目黒区(目黒町、碑衾町(ひぶすま)が合併)が生まれた翌年に開園されます。
 この池は、農村が広がっていた江戸時代から碑文谷村の灌漑用貯水池として管理されましたが、市郡合併と時を同じくして、池の周囲を公園として永久保存することを条件に東京市に寄贈され、公園化が実現します。
 元は「三谷の池」と呼ばれ、現在よりかなり大きかったそうで、同区内の清水池公園と共に立会川の源流とされます。

 車窓からは気付かなかった、目黒区立碑文谷体育館、野球場、テニスコートも併設される、区民の憩いの場+スポーツ施設となっています。
 また一角には、ポニーやウサギなど小動物とふれあえる「こども動物広場」もあります。
 上写真は、薄暗いポニーの厩舎(きゅうしゃ)で黙々と世話をする小学生の姿で、大勢で糞の掃除などをしているのですが、おしゃべりすることもなくせっせと働いています。きっとその後に、馬とのふれあいタイムが待っているのでしょうね(下写真)。


 碑文谷という地名には、ゆかりを調べてみたくなる響きがあります。
 以前、碑文谷八幡宮(後述「すずめのお宿緑地公園」に隣接)の西側を通る旧鎌倉街道脇の地中から、室町時代のものとされる梵字が刻まれた碑文石が見つかり、「碑文が刻まれた石のある谷」とされるのが通説のようです。
 地名の記録と年代が食い違うなどの意見があるにせよ、どこにでもありそうな由緒にちょっと落胆。でも残された歴史を大切に。
 上述の「碑衾町:碑文谷村と衾(ふすま)村の一部が合併し碑衾村〜後年町となる」にも名が残りますから、有力者がいたように思えます(「衾(ふすま)町」に関しては、次回ふれるつもりです)。

 東横線の開通は1927年(昭和2年)で、当時は碑文谷駅(現学芸大学駅)だったそうです。


 「三谷の池」とされた江戸時代は、現在の目黒本町五丁目・六丁目、原町、洗足、鷹番および碑文谷一帯は、将軍家「六筋御鷹場」のひとつとされる鷹狩り場でした。
 現在の「鷹番」の地名は、付近に鷹場番所(監視所)があったことに由来し、鷹場への立ち入りを禁じる「鷹番の高札」(こうさつ:法令の掲示板 時代劇で目にする)が保存されます。
 将軍様の道楽のために立ち入りが禁じられますが、現在の国有地で違法狩猟・採取を監視していると考えれば分かりやすいかも知れません。


 碑文谷で最も有名なダイエー碑文谷店です。
 ダイエーの中でも売り上げ・利益共にトップクラスで、巨艦店とされるそうです。
 7階建ての大きなビルですが、ここは横井英樹(乗っ取り屋、ホテルニュージャパンで知られる)が200レーンある日本一のボウリング場として建設したもので(1970年前後)、作りもボーリング場的だそうです。話の種に入ってみましたが、なるほど見通しの利く印象。
 建設途中にボーリングブームが下火となり、ダイエーの中内㓛に貸したそうです(戦後のどさくさに財を成し、功罪含めて日本を牽引することとなる、怪しげな名前が並びます)。

 世間からもスーパーの代表的店舗とされ、外国の高官が視察に訪れたり、店頭での募金が始まった際の取材等で、メディア露出機会が多い店舗になります。
 高級スーパーという印象を持っていましたが、それでは近所のスーパーに対抗できないため、価格は一般的なスーパーと同レベルだそうで、店内の印象も気後れするものではありません。


すずめのお宿緑地公園(Map)


 傾斜地の多い目黒一帯では、江戸時代後半から竹の子栽培が始まり、大正時代にピークを迎えます。
 昭和初期の竹林はスズメのねぐらとなり、幾千ものスズメが朝夕の出入りの際には、空が薄暗くなったそうですから、「すずめのお宿」の響きからイメージするメルヘンチックなものではなく、かなり騒々しかったことでしょう。

 上写真の竹にはまだ皮が巻き付いていますから、この春生えてきたように見えます。
 太さも10cm以上ありすっかり大人の竹(?)の姿ですから、すさまじい成長スピードがうかがえます。


サレジオ教会(カトリック碑文谷教会)(Map)

 カトリックの教会で、1954年「江戸のサンタ・マリア聖堂」としてサレジオ会によって建設されたため、サレジオ教会として親しまれます(バス停も「サレジオ教会」)。
 この「サンタ・マリア」とは聖母マリア像「親指の聖母」(絵画)のことで、教会内に掲げられているそうです(レプリカ。本物は上野国立博物館蔵)。
 そして「江戸」のゆかりは、1708年(江戸時代中期)鎖国とキリスト教禁制の日本に渡ってきたイタリア人宣教師シドッチが、その絵を持ち込んだことにさかのぼります。
 彼は屋久島に上陸後(聞いた名前と思ったら屋久島で出会っていました。かの地にも小さな教会があります)即捕らえられ、茗荷谷の切支丹屋敷に幽閉され10ヵ月後に亡くなります。
 教会の建設中にその絵画が博物館で発見されたことから、ここはシドッチが江戸時代の日本にもたらした「聖母マリア像」に捧げられた存在とされます。

 有名人が結婚式に利用する教会がこことは知らなかったのですが、三浦友和・山口百恵、松田聖子・神田正輝、三浦知良・設楽りさ子等が、ここを利用したそうです。
 写真左側の修復中の鐘楼は、東日本大震災で塔上の十字架が折れたものを修復するためだそうです。

 今回はそれほど広い範囲を歩いてないのですが、分野が異なる町の構成要素を多く見られた気がして、そんな多様さが暮らしやすさ(豊かさ)を感じさせてくれるのだろう、との印象を受けました。


 上写真は自宅近くのマンションの軒先です。昨年気付いたのですが、やはり毎年同じ場所で子育てをするようです。
 巣立ち間近のようで、4羽いるヒナたちはもう巣からはみ出しそうなほど大きくなっています。
 週明けには巣立っていったようですが、来年はもう少し早い時期に撮りたいと……



追記
 今週の接近遭遇──長澤まさみちゃん at 六本木ヒルズ(6月17日)

 扉が閉まりかけたエレベーターに2人の女性が乗り込んできます。
 大きなふちのメガネをした若い方の女性が、伏し目がちにわたしの方に向かってきます。
 わたしのリラックスした姿勢から、ちょうど目線に入る高さに女性の顔があったので、自然と彼女の顔を眺めていました。
 彼女がわたしの目の前で扉の方に向かい直す瞬間の横顔に「エッ、長澤まさみ!?」の衝撃が……
 「まさか」とは思うも、背の高いイメージからも(調べたら168cm)わたし(調べても見つかりません180cm)からつむじが見える程度の身長差(ペッタンコの靴を履いてた)ですから、「あるかも?」と。
 目の前に立つ彼女の後ろ姿は、とてもきゃしゃな体つき(スレンダー)で、頭が小さいこと! なので、背は高くてもデカイ印象の無い宝塚の男役のような「カッコイイ」後ろ姿を、数十秒間眺めていました(「手を伸ばせば届く距離」という表現って切ない……)。
 わたしが先に降りる際、顔を見ながら(のぞき込むようなことはできませんが)彼女の前に出る時に目が合い、「エッ、何、バレた?」とこちらをうかがいながら、テレビでも見かける小刻みに首を動かすしぐさを目にし、これは間違いないと確信しエレベーターを降りました。

 なるほど、あの文句の付けようがない容姿なら「使いたい」と思うのは当然だろうと納得できましたが、「外見がカワイイだけでいいの?」を求めると、誰もいなくなっちゃうかも知れませんしね……
 まだ若いから、大きめの眼鏡をしてスッピンでも、すぐバレちゃうよ、まさみちゃん!
 というのが世間の視線ですから、プライベートで外出する度にそんな視線を意識する必要がある人たちの不自由さを、逆に理解できた気がします……

2011/06/13

梅雨の晴れ間のグリーン グリーン デイ──祐天寺

2011.6.4
【東京都】

 この日のテーマは祐天寺ですが少し広い地域を歩こうと、前回同様田園都市線からスタートし、三軒茶屋〜東横線祐天寺〜目黒線武蔵小山を歩きます。

 土曜の午後、三茶から三宿方面に歩いていると、若い女性が次々わたしに向かって来ると錯覚するような? 昭和女子大の流れに遭遇しました。
 まるで「オヤジの小言」ですが、若い女性に対して「これくらいの節度でいてもらえないか」の見本としたい女子大生の群れに、少しホッとできた印象があります。
 これまで勤務地付近で感じたものには、市ヶ谷の大妻女子大は派手で「ご出勤ですか?」だったり、目黒日出学園の女子高生には「恥じらいを身につけなさい!」などの印象がありました。
 現在の勤務地六本木は卒業生が羽を伸ばす町ですから、バブルはとうにはじけた現在も「これでどうだ!?」の意気込みで乗り込む舞台のようです。

 このタイトルは、梅雨の晴れ間に味わえた若葉のみずみずしさと、女子大生たちの「今週の授業は終わった〜」という晴れ晴れした表情に、さわやかさを感じたことによります。


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世田谷公園(Map)

 日差しも強く汗ばむ陽気のせいか、公園のシンボル的な噴水池を囲む芝生には、海パン姿で日光浴するオヤジがゴロゴロ転がっています(外国人が多い)。一応シャッターは切りましたが不採用とさせていただきます。

 野球場、テニスコート、ミニSL(土曜日も盛況)等のある公園ですが、ここの売りは「プレーパーク」があることです。
 プレーパークとは、ヨーロッパの冒険遊びを日本で実践しようとする運動で、同じ世田谷区の羽根木公園に日本初の常設型プレーパークが作られました。
 ここには「禁止事項」はないので、子どもたちは思うままに遊べますが、その代わりケガや事故は全部「自己責任」とされます。
 ガキ時分に近所の野山で遊んだ環境を東京にも作りたい、そんな願望は理解できるところです(神奈川での取り組みは横浜市三保念珠坂公園で紹介しました)。

 足を踏み入れた瞬間は、縄文人体験のようなたき火をしていたり(指導者がいれば可能)、廃材の掘っ立て小屋が並びホームレスが暮らすような暗い印象を受けましたが、振り返ってみれば自分もそんな「秘密基地」を作って遊びましたし、母親の「なんでこんなに汚れたの?」に釈明できなかった記憶がよみがえってきます。
 やりたいんだもん、しょうがないよなぁ〜。


 世田谷公園の隣には自衛隊施設(病院や、三宿駐屯地とされる区域)が広がるので、公園の土地も中目黒公園同様、国の管理下に置かれていたようです。
 自衛隊は都内にもいてもらわないと困りますから、「柵の中は広そうだなぁ」とプレッシャーをかけつつ、整理統合で土地が地域に払い下げられることを気長に待ちましょう。


祐天寺駅周辺(Map)

 世田谷公園から祐天寺に向かう道の谷間に、蛇崩川(じゃくずれがわ)が暗きょ化された歩道があります。
 歩道付近は整地されたようですが、かつての暴れ川に浸食された斜面は現在も「ここだけ急坂」の地形に見て取れます。
 蛇崩川から祐天寺駅周辺は以前農地だったためか、区画の広い住宅地として開発され立派な家が多く、有名人が多く暮らすようです。
 その住宅街のある駅北側には商店は少ないのですが、南側に繁華街が開けています。
 代々木八幡・上原的な(で伝わるか?)、ビルはなくともこまごまと裏通りまで店が並ぶ様子に、アベックが多い理由を理解できた気がします。


 上写真は、SLの大きな車輪が置かれた辻の奧にある幼稚園で、緑は一本の大木の枝になります。
 大きな木の下にいると大人でも、守られているような安堵を感じることがありますから、子どもたちも夢中に遊び回れるのでしょう。
 幼稚園の守り神のような木の下で遊んだことは生涯忘れないだろうと思える、インパクトのある大木です。


祐天寺(Map)

 当初の企画としては、東横線で唯一利用したことのないこの駅から町に降り立つことを目指しましたが、ルートを検討したところ、結局今回も改札を抜けられませんでした。
 縁がないだけに、普段通過しながら「祐天寺ってどんなお寺?」の関心があっても、結局今回まで調べようとしなかったことが、出会いの演出にはよかったみたいです。


 1723年(江戸時代)に開山したこの寺は、徳川家の菩提寺である芝増上寺住職だった祐天の霊堂として建立されます。
 将軍吉宗から「明顕山祐天寺」の寺号が授与され(当時寺院建立は禁じられていた)、以来将軍家から特別の保護を受け栄えます。
 立派なお寺はパトロンのおかげ、という失礼な印象ですが、見晴らしのいい場所にあり当時は江戸城から見通せたことでしょう。

 上写真は賽銭箱で、家紋などではなく「纏(まとい)」の絵が並ぶ様子は江戸時代らしく見える。

 政治中枢とのゆかりがあったためか、以前ニュースで、この寺には政府に委託された朝鮮半島出身の(強制動員された)旧日本軍軍人・軍属の遺骨が仏舎利殿に保管される、ことを知りました。
 第二次世界大戦当時の日本人の思考からすれば、「とにかく別の場所に隔離しろ」程度の考えだったのでしょう。
 その保管状況の悪さから遺骨返還の際に、生存している方の遺骨を返還したことが判明したそうですから、誠意のない対応への韓国・北朝鮮側の日本嫌悪感は当然と思えます……

 きちんとした立派なお寺(浄土宗)なので、「急行がとまらない」を理由に通過している方は、町中散策と併せて是非!
 気取った町との印象も薄れ、好感を持てる地域と思います。


油面地蔵通り(高地蔵尊)(Map)

 今回歩く周辺を調べ「油面:あぶらめん」の表記を目にした途端、「是非行かねば!」と駆り立てられました。
 以前目黒に勤めたころ、徹夜明けのタクシーで帰宅の際に交差点名で見かけ「不思議な名前」と毎週感じながらも、何年もその地名に関心を持たなかったことへの反省もあります。


 江戸時代中ごろこの地域では菜種の栽培が盛んになり、菜種油が増上寺や祐天寺の灯明に使われるようになります。油を奉納することで税が免除されたそうで「油免」から「油面」となったと伝わります。
 ネット検索で目に止まった「日本植物油協会」のページによると、油面・油免の名称は多く残るようで、現在住の川崎市にもあるとのこと。
 川崎市にある3つの油面地区では王禅寺に油を納めたそうで、栄えたころの王禅寺がしのばれます。
 
 現在でも交差点・バス停・学校・商店街等に名称は残りますが、地名としては存在しません。


林試の森公園(Map)

 ここは1900年(明治33年)に農商務省林野整理局「目黒試験苗圃(びょうほ)」として開設され、1978年まで「林業試験場」とされました。
 林業試験場がつくば市に移転後整備され、1989年に「都立林試の森公園」として開園します。


 100年以上歴史のある森なので(都内では珍しいが目黒付近には自然教育園もある)、幹回りの太い大木が数多く健在で、絶滅危惧種(ハナガカシ)、日本の珍しい樹木(ヨコグラノキ、ナナメノキ、クロキ)や、外国産樹木(カイノキ、シナユリノキ、ユサン、アメリカトネリコ)などが見られます。
 植物に関心が無くても大木の根元に立つと、その迫力に圧倒される森です。
 ここは公園化されていて結構自由に歩き回れるので、ガキたちも活発に走り回っています。

 公園紹介の年間カレンダーで、10月に見られるものには「ドングリの落下(園内各所)」とあります。
 きっと、いろんな種類のドングリが落ちてくるんでしょうね……


 追記
 国際通貨基金(IMF:通貨・為替安定を目的とする国際連合の専門機関)が、日本の消費税率を「2012年度から7〜8%に引き上げるべき」との案を示しました。
 国内の見方は「国際機関が日本の税制に対し、増税時期と内容まで詳しく特定して提言するのは異例」で、内政干渉のようにも受け止められますが、これが世界からの見方になります。
 「借金(国債)が膨れあがっても成長力への期待感が信用とされてきたが、大震災後の成長が望めない現状では、国の財政状況の見通しを世界に示さねば、通貨や日本国債等の信用不安だけでなく、国際社会への影響が懸念される」ということのようです。

 世界の中で存在感を示し、輸出を伸ばすためには責任を負う義務もあるわけで、日本だけ財政赤字を大目に見てもらえた時代は終わり、「赤字国債発行」のまやかしでなく、本質的な「財政健全化」のあり方を突きつけられたことになります。

 とは言え、ここは甘んじても(反論の余地が無いことは国民も分かっています)「いまに見てろよ!」の気概がなければ、日本は復興できません!